斎藤ちさとのウェブログ CHISATO SAITO weblog

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茶の実


上中程の茶色い種は茶の実です。
実があるということは花が咲きますね。
花の時期を注意しなくては。(秋頃らしいです)
作品のモチーフにも使いたいし、
天ぷらにして食べてもみたいなぁ。
Camellia sinensis(茶の樹)
 

アトリエのある実家の庭に茶の樹が自生しているのを知りました。
ずっと椿だと思っていたのです。
どうも昔々、お隣との境は茶の樹で垣根を作っていたらしく、
何らかの理由でブロック塀に変えて、その時一掃されたはずの生き残り
のようです。
樹が小さいのでもしかしたら実生で勝手に育ったものでは?とのこと。

せっかくなので造花の山に混ぜてみました。
新芽の季節がきたら摘んでお茶を作ってみようと思います。

山居0224


3年ほど前に読んだ千宗屋さんの「茶 利休と今をつなぐ」
を再読しました。
お茶を習い始めてから改めて読むと、腑に落ちる
ことがたくさん。。

日本はヨーロッパ的な哲学を体系的には生んで来なかったけれど、
お茶や武術や踊り(能)、歌、花など身体を動かしながら思考して来た。
という説があります。

お茶の型は日常の動作を目に見えるくらいゆっくり、
まだるっこしいくらい丁寧に行うことに基づいていますが、
動きを遅らせることで考える時間が与えられる
型にはそうすべき必然性があり、またその型は精神が宿るよりしろ
となるのだそうです。
しつこく山


昨日
千葉市美術館で初期の浮世絵の展示を見てきました。
菱川師宣から始まり。今まで私が知っていた「浮世絵(錦絵)」
が始まる以前の紅摺絵と呼ばれる色数の少ないもので、
未知の領域でした。
あるのは知っていたけど、入るのは初めて!の森を探検したような
ワクワクした気持ちで
ご一緒したコイケジュンコさんとあれこれ推測しながら
じっくり見て気づいたら2時間半経過。
充実した質と内容の展示でした。
比較すると、紅摺絵は絵の中にちりばめられた暗喩を読み解く面白さで、
そこからすると錦絵は解りやすくて装飾的という感じかな。

刺激をもらって、アトリエへ。
今日も1:1.618の長方形を基点にしました。

開けてみないとわからない


今日は久しぶりにフラットに造花を配置して撮りました。
カメラのファインダー越しに確認する画像と
PCでデータを開いた時の見え方は違うのですが
今日は特に違っていて、
開いてみたら、昔作っていたフォトグラムのよう。
組んでいた時は、1:1.618の長方形を緩めていくように
配することだけを意識していたのです。


インフルエンザ


先週生まれて初めてインフルエンザになりまして、別の部分も
悪くなったりで一週間と数日動けませんでした。
喝を入れるべく昨日は文化庁のメディア芸術祭で
刺激をもらってきてからの久々の素描です。

復調と同時に旧暦でも新年に入りましたので
改めて年が明けたような気がします。
(確定申告も提出できました!)

和って?


お茶を習い始めて改めて「和」について考えています。
日本人の文化や精神を象徴する言葉としてわたくしたちは
和風○○などと使っていて、
日本家屋に和食に着物などをありていに連想するわけですが、
着物を着ていれば和の精神を体現しているのか?と言えばそうでもなく。

着物を着てお花をいけたり、お茶会に出かけたりというのは
気分的には和っぽいのですが、
和の真意はなんだろう。って

実技を体験してみて驚いたのは
お茶のお点前は超合理的に構築されている。
ということ。
とても意外でした。

どのように合理的かというと、
亭主がスムーズに点前できれば客に美味しいお茶を
飲んでもらうことができ、逆に客の作法や会話がスムーズで
あれば、同席の客同士の関係も和み
亭主は美味しいお茶を良いタイミングで提供できる。
で、普通に合理性を追求するならば
もちろん点前はいらないので、わざわざ点前することで
列席者が何かを認識するという作業が盛り込まれているので
超であるかと。

各々の関係で円満な空間が描ける。
空間に目に見えない円を生み出す
ためのシステムであるなと。
禅語の円相を体現する世界。とも言えそう。

人と人との関係で
空間に(目に見えない)円や輪を描きだすのが和なのかな。
加えてお茶室は空性を体現する空間で。。
とそんなことを思いました。
 
(指導下さる先生やフォローいただいてる先輩弟子の方たちに
改めて感謝の気持ちです)
どこでも山居


すごく昔に読んだリチャード・バックの小説に
現代の奇跡は聖地ではなくキオスクの前で起きる。

といったくだりがありました。
最近ふとこの言葉を思い出して、本当に奇跡も悪夢も
ごくありふれた場所で起きるのが今の時代だと
しみじみと感じ入ったのですが。

今取り組んでいるこのシリーズは室町時代の茶人宗珠が発した言葉
「市中の山居」にヒントをもらって始めました。
この言葉は、都市の中の茶の湯のあり方を明確にしている言葉ですが、
現代のようなせわしない。
(テロリズムなどの)危機感不穏感に満ちた都市で、
静寂を求めて特別に囲ったようなスペースを、さらに圧縮させた場を持つことで
いついかなる時やところでも心を静寂に保つこと必要があるのではないか。

そこで考えているのが
露地や軸や花や庭の効能を備えた
全ての場所を山居と思えるような心持ちを誘う極小の空間を作るには?と。
小さな紙で出来たテーブルマットにそのような機能を詰め込もうと
試している画像です。
イメージを印刷した紙さえあれば、どこでも茶の湯の場になるような。
その上でお茶を飲む。
お点前してもいいし、しなくてもペットボトルでも缶コーヒーでもいい。

いついかなる事態にも備えるため、
心を静かに保つため
この酷い時代を生き抜く強さをたくわえるために。

限られた時間について


今日の素描です。

昨年末から
同じ年の友人で作家仲間の訃報が続いていまして
驚きと悲しい残念な気持ちと同時に、いつ自分も世を去るとも
解らないという現実に向き合わざるを得ません。
もし自分が彼女たちの立場であったらどのように思うだろうか。。
(人間の意識は不滅であるという考え方が前提です)

私たちは誰もが生まれてから、限られた時間を生きて死んでいきます。
それは自分の意志では決められないことですし、
もし仮に自分で終わらせたとしてもそこが寿命であったと考えます。
身体の時間は限られている。

その限られた時間にいろいろやるべきことがあり
それぞれ全員違うプログラムがある。多分ね。
ですから、必要以上に嘆かず
それぞれのやるべきことを遂行してほしい。

ただしわがままを言いたい。
時々残した作品に会ってみたり思い出してね。
と。

ここ数日、記憶に残った彼女たちの作品を思って過ごしています。

カメラ素描


もう3年も触りながら考えているのですが、
自然とそれが持ちうるあらゆる法則を考察しながら
カメラで素描していって
今年はいよいよ本腰入れてまとめていきたいと思います。

まずは本の形式に出来れば。