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メモ

 今、社会に対して「抑制された美」を差し出すことは批評行為なのだと
私は考えています。

JUGEMテーマ:アート・デザイン



意味の意味
 「これって何の意味があるの?」

美術に関わって作品など作っていると度々浴びせかけられるお言葉。
芸術や文化など疎ましくて仕方がない。と思しき方からは特に頻繁に寄せられる
言葉であります。

この言葉をいただいた時は、私は愚直に作品のコンセプトやら想いやら
彼(彼女)に理解のとっかかりとなりそうな事なら何でも話してきたわけですが、
ここ半年二つの出来事を経て、これまでの自分の努力の向かう方向が完全に
間違っていたことを悟りました。

ある時、親しくさせていただいているカフェの店舗の壁面にクローバーのインクジェット
プリントを展示した時のことです。
友人が見に来てくれて、プリントの前で話をしていたら、
向こうから目の据わった鬼のような形相のマダムがやってきました。

「これオタクの?」

はい。と返事をしたら、いかに私の作品が気持ち悪くて不愉快で嫌いで
早く撤去してほしいと思っているか。矢継ぎ早にまくしたてられました。
ギャラリーではなく、街のカフェなのでいろいろな人がいるのは承知の上だし、
実用品でもなく、皆に理解されるデザインでもないわけだから、好きな人も嫌いな人も
いるのが相手の解釈の自由を担保する健全な状態。
しかしアーティストとしては作品に対する説明責任はあるだろうと。
極力にこやかにお話したのですが、彼女は捨て台詞で去っていきました。

「こんな作品意味ないし、白い壁のほうが全然ましだし」

彼女の目の据わり具合からして何を言っても無駄だということだけは解りました。
嫌われる。
ということは逆に必ず支持者がいる。という証なので、アートにとっては良いことです。
芸術は万人に愛されること。を目指していませんから。

「こんな作品意味ないし」
意味ない?ねぇ。
彼女にとっては意味がないということなんだけど、
彼女の発した本当の意図は何なんだろう。と俄然興味が出てきました。
そう言えば、
高校2年の時進路を決めるにあたって、美大に行くことに決めた私に向かって当時
好きだった男子(片思い)から言われました。

「美術なんかやったって何の意味もない」

それから同じような言葉を今まで何人もの人から浴びせられて不思議に思ってきました。
人類が面々と歴史を紡いできたアートに向かって意味がない。って変じゃない?
そして先日、電光石火のように解ったのです。
彼らの使う言葉の意味の意味について。

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先週、友人のアーティスト・コイケジュンコさんの松戸アートラインプロジェクトでの
パフォーマンスのカメラマンをしました。
彼女の作品、HI-FUKU(非服)をコイケさん自身が着て松戸の街やアートラインの展覧会場
を練り歩くというもの。
いままでコイケさんのHI-FUKU(非服)は決まったモデルさんがいて、作者のコイケさんが
着たのは初めてだったそうで、彼女にとってはチャレンジでした。
コイケさんは公園の酔っぱらいオヤジたちにも果敢に絡み、路上を行く人の注目を
浴びつつ、松戸アートラインの参加作家さんとも交流。
アトリエからHI-FUKU(非服)が作者と供に街に出て、見知らぬ街に出て見知らぬ人と
対話して、いろいろな人との関係が生まれる。
展示も素敵でしたが、そこから更に一歩踏み出したという感触があり
とても意義深く感じられました。

パフォーマンスはとても面白かったのですが、途中で酒臭い爺さんが
コイケさんに絡んで、あの台詞をしつこく投げてきました。

「これって何の意味があんの?」

失敬な!と思いつつ、爺やの酒臭い息を感じた時閃いたのです。

「このじいさんにとっての意味ある事って酒飲む事なんじゃないか!」

この人はお酒が飲めればいいし、
更にお酒を自由に手に入れる事の出来るお金は素晴らしいのでしょう。
言い換えれば、私が長らく謎としてきた人様の仰る「意味」とはゼニのことだったのです。
または経済。
なーんだそういうことか。
「意味」の意味が全然すり替えられているよ。
っていうか、日本の社会の価値観自体が「経済」こそ一番意義ある存在なんですよね。
つまり前述のマダムの

「こんな作品意味ないし」は
「クローバーの絵柄(アート)が彼女の人生において経済的に何ら利潤を生むものではない」

ということなのでしょう。
長年の謎が解けました。

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ちょっと脱線しました。
意味とは本来、単体で存在するものじゃなくて、
他者と関わることによって生まれてくるもの。
絶海の孤島で一人で暮らして、死んでいく人生に意味は生まれない。
アトリエで作品を作って、自分だけで愛でていても意味は生まれない。
見知らぬ他人に見せて、その他者と何らかの関係が生まれて初めて意味も
生まれるもの。

と私は考えています。
だから、私が自分の作品を「これは意味がある/ない」
と主張するのはまさに意味がないんですね(笑
あるかどうかは他人や歴史との関係で生まれてくるかどうかだから。
かと言って、現実として人間はそれぞれ孤独に生まれてきて、
それぞれの事情で死んで行くのです。
人が生きて死んで行くのは、社会の中で他者と関係を作って行く側面と
絶海の孤島で一人で暮らして死んでいくというような面が同時にあります。

藝術はこのような人間の生死観に同時に深く関わってくるから矛盾と言いますか、
経済が目指す合理性とは
正に正反対の性格を持っている大きな存在なのだと思います。

だからアーティストは社会に向かって石を投げるように、
作品で投げかけ続けるしかないのですね。
見ていただいてなんぼです。(笑
松戸の歴史:平潟遊郭


*制作+展示している日大歯学部旧校舎。手前の位置にかつて遊郭の大門があったのです。

繰り返しになりますが、今展示している場所は、江戸時代から昭和33年の売春禁止法が交付
されるまで「平潟遊郭」があった場所。
江戸時代、鮮魚を運ぶ中継地として目と鼻の先に港があり、飯盛旅籠旅館が立ち並び
徐々に、遊郭に発展していったようです。
日大歯学部の旧校舎の前と椀曲した通りの反対側に大門があったのだとか。
全盛期は、155名もの妓楼を抱えていたそうですが、今は閑静な住宅街に変わっています。
負の遺産は消される方向なのでしょうね。

以下の2カットは松戸市本町自治会のHPより出典:http://www.honcho-matsudo.com/tenzan-hirakata-yukaku.htm
当時の地図。今展示している場所は江戸屋から蓬莱屋くらいまで。

トップの画像と同じ場所です。当時はこんなに賑わっていた。。。。


現在、遊郭は見たところ影も形もありませんが、当時を偲ぶシンボルとして柳の木が一本
だけ残されています。


また、日大歯学部の校舎の向かいに、来迎寺というお寺と平潟神社(水神宮)があります。

平潟神社

来迎寺

平潟神社は水運の無事を祈り、来迎寺には今も歴代の妓楼さんたちの骨が眠っています。
この2つの場所にしばらく佇んでいると、かつてのこの地の空気が濃厚に感じ取れます。
まさに諸行無常の響きあり。
そのような無数の消えた歴史の積み重ねの上に、私たちは生きていて
そして、今この土地には漂白されたかのような静かな「気」が漂っているのです。
松戸の歴史:魚の輸送中継基地
松戸は水戸藩の別荘城下の宿場町という他に、鮮魚を輸送する中継基地の港町として江戸時代栄えていたらしい。ということをごく最近、平潟遊郭について調べるのに伴って
知りました。
銚子であがった魚を利根川を上がって布佐(我孫子の近辺)まで船で運び、陸路で松戸
まで、松戸からは江戸川を下って東京湾を伝って深川で卸し日本橋へ。。
という経路だったようです。
偶然にもここ数年、深川いっぷくさんやえむななさん。深川とご縁ができたのも江戸時代
からの続きと考えると何だか面白い。

ところで、私の向かいで展示している松澤有子さんは、ひそやかで美しい表現が印象に
残る作家さんですが、今回は魚の中継地としての松戸。を取り上げていらっしゃいます。
松澤さんの制作過程はこちら
(完成作は現場でのお楽しみ!)

彼女と初めて会った時に「新作のモチーフは魚なの」
と聞いて、へぇ?????と思ったのですが、こういう歴史を裏打ちしていたと
解って非常に納得しました。
カニバリズム
昨日の講義の後、人間植物関係学研究室の木村正典先生をお訪ねして、
カモミール・ティをご馳走になりながら興味深い話を伺ってきた。

いけばなやフラワーアレンジ、友人の志村みづえさんの「食花」
プロジェクトの話からカニバリズムの話題になった。

人間が動植物に対する認識は次の3種類。
1)野生 2)食用 3)鑑賞または愛玩。
野生はケースバイケースで2)3)となる事もなくはない。まれに食用が3)となることはある。
ただし3)が食されることに、人間は激しく抵抗を感じるらしい。
それは一種のカニバリズムなのだと。

カニバリズムは生物学用語では「共食い」。
つまり、鑑賞や愛玩の対象は、すでに犬でも猫でも草花でもなく人間と同等なのだ。
だから歴史的に人は観賞用の花を食べて来なかったし、イルカやクジラを水族館などに囲っている民族は
クジラを食する。という事をタブー視する。

いづれにせよ、野生/食用/鑑賞または愛玩。の区分けは文化によってまちまちなので、
違う文化間に齟齬が生まれるんですよね〜〜。というお話。

木村先生は「花を食べる」というのは一種のタブーなんですよ。
と仰った。
でも、歴史的に見ていくと、新しい事をする時というのは、だいたいタブーを踏んでいる。
ということなど、いろいろと宿題をいただいて帰ってきたので
引き続き考えてみることにしよう。
手袋


写真家とカメラマンはどう違うののか考える機会がありまして、、

撮影、データのプリントやセレクトや額装。
写真家とはこのようなトータルな作業を行う人の名称。
カメラマンとは撮影のみを行う人の名称。
ではないか?と考えています。

写真はここのところ身体の一部のようになっている手袋です。
見たくないもの


子供の頃、写真が嫌いでした。
もちろんカメラなんて持ってないから撮られる。
ということです。
どうということもない自分の容姿を、やっぱりという感じで
確認するのが憂鬱でした。
それより、どうってことがなければ良い方で、内心
撮るなよっ(-"-;)と思っていて、それが見事に撮られてしまって
ものすごい人相(悪いという意味ね)の自分の顔を見るのは恐怖に近かった。
今思えば、写真じゃなくて自分の顔が嫌だ。ってことですね。

そんなわけで、自分にとっての写真観とは
「写ってほしくないもの、見たくないものが写る怖いもの」
が起源と言えます。

しかし人生やりたいことだけやって、楽しいことだらけで、何の反省も
なければ、進歩もなければ、新しいものは作れない。
何より他人に訴えかける作品は出来ない。
それじゃマズいしつまらないんです。
だいたい芸術は「見たくない本当のこと」に触れているものが多いので、
時代時代で無視されたり弾圧されたのか。とも思います。
だったら「見たくないもの」もちゃんと見ておかないとね。

シャッターを切って、後日データを見て「こんな絵が撮れてた」
ということはよくあります。
写真は「見たいもの/見たくないもの」の枠の外にある
「見えなかった/見落としてしまうもの」をたまに拾ってくる時があって面白いなぁ。
と最近では思うようになりました。
美味しい絵
*シェ・イノの鹿肉のグリル(確かバルサミコのソース)
*銀座の焼き鳥屋さん、武ちゃんのぼんじり
*パリで食べた香辛料のきいた北アフリカ料理
*塩釜のお寿司屋さん、すし哲で食べた蛸の刺身
*京都鍵膳の葛きり
*ヴァローナのブラックチョコレート


昨年、ついに最後の課題であったしいたけもクリアしまして、
基本的に嫌いな食べ物はありません。
コンビニ弁当も立ち食いそばも、ラーメンもハンバーガーも美味しくいただきます。
食べるという事自体が、他の生き物を犠牲にしているので、
有り難く頂かないとダメなんじゃないかという考えが基本的にあります。
もちろん不味いものは不味いですけど、、。
家で普段の食事はとても簡素なもので、
分づき米、みそ汁、野菜のおひたし、納豆、肉や魚、、、。
外食することも多いですから、家では野菜をたくさん摂るようにしています。

上に挙げたものはどれも日常的に食べているものではありません。
一度だけ食べて、どうしても忘れられないほどインパクトのあった味。
というのを書き出してみました。

美学者・谷川渥氏は著書「美学の逆説」の中で
趣味判断(美的判断)とは味覚である。
と、哲学者カントの判断力批判を引き合いに出して論じています。
この文章に触れてから、食べ物と、作品の類似点や共通点を探すように
なりました。
味覚こそ、芸術を判断する下地であると解釈しています。

美という字は羊が大きいと書き、古代中国では大きい羊は美味い。
美味いものが美しい。
というのが美の根拠なんだそうです。

原始時代のヴィーナスはこんなに太っています。

これが人類が美しいと感じるルーツなのではないでしょうか?
感動するのは美味しいから。

今まで感動した作品は古今東西たくさんあるのですが、
とりわけ味覚のように味わったことのある作品は
ルーブル美術館で見たプーサンの作品です。

一見地味で優等生的な絵画ですが、じっくりみていると
感動がじわじわ湧いてきて何時間も絵の前に居たくなります。
味覚に表すと、
噛めば噛むほど肉汁の旨味が舌の上で踊る、至福の時間が堪能できます。
その味は旨味にあふれ、甘くも感じ、最適な塩味、酸味を含んだソースのさわやかさもあり、
ほろ苦くもある。
味覚を表す言葉全てが感じられるような奥深い感動がありました。
以前にシェ・イノで鹿肉のグリルを食べた時の感覚が近い言葉で表せます。
強い野趣が最高に洗練されている技に唸ったのが忘れられません。
真面目な話
久々に真面目な事が書きたくなりました。

もともと制作する側の人間ですが、昨年より東京農業大学の一般教養枠で現代美術と銘打った講義をする仕事をいただいています。
この仕事は作家の横湯久美さんより引き継いだもので、何を話しても良いとのことで、いろいろ悩みましたが、結局まともすぎるくらいまともに美術史の話をしています。
そして最後の何コマかで、最近の展覧会や美術館レポート。

まずは美術が専門分野でない人たちに、美術の面白さ深さを伝えたい。
または、今は興味がさほどないとしても、将来好きになった時に役に立つ
下地を作るお手伝いをしたい。
ということが一番の目的です。

最近はファッション雑誌でアート特集が組まれたり、横浜トリエンナーレも
あるし、アートに対する興味は高まっていると思うのですが、
今様のアートの状況は何でもアリで、アリすぎで、
どこをどう見たらよいか掴めない人が多いという危険もあります。
そして、そうした何でもあり状態こそがアートだというのは違うのです。

一般的な美術やアートのイメージというと、個人の自由で何でもアリ。
というところだと思いますが、
私個人はこのような見方には否定的で、
物事に必然性や根拠を求めてしまいます。
というか、その部分が伝わらないと、アートの存在意義が伝わらないと思っています。
それではもったいない。

その何でもあり状態は何故出現したか?
時代時代なぜどのように独自の表現が出現してきたか?
また現代にいたるまでその作品が人々に鑑賞され、必要とされてきたのか?

その辺りの疑問を解決するには、過去を辿ってみるのがひとつの方法で、
現代のことを考えるために、過去の美術史も見るとグッと深くなります。
過去を知ることによって、現在が必然の流れの結果であると納得できて、
いろいろな謎や疑惑や誤解が解けてきます。

実は私もこういう心境になったのはごく最近のことなのです。
どの時代のものも丁寧に見てくと、面白い出会いがあって、
やはり美術は楽しいです。



沈黙交易とコミュニケーション
以下内田樹氏の「下流志向」P140の一文を抜粋します。

*********************************
、、交換の起源的な形態は「沈黙交易」です。
ある部族が共同体の境界線のところに何か品物を置いておく。
すると別の部族が来て、その品物を受け取って、代わりに別の品物を置いて帰る。
この繰り返しが交易の起源とされています。

沈黙交易で大事なポイントは、そこに置かれた品物の価値を受け取った方は知らないということです。
部族が違う以上、言語も違うし、宗教も違う。
だから、ある品物を受け取って、それと「等価のもの」を置いて帰るということはできない。
もらったものの価値がわからないのですから、等価物を取り出せるはずがありません。
*********************************

人類最古の交換ルールが、投げかけたものに対して、何が返って来るかわからない。
という沈黙交易だとすれば、これは人間同士のコミュニケーションの起源でも
あると思うのです。
初めにすべてありき。ですからこれは現在でも有効のはず。

ある言葉が人を救うこともあれば、怒らせることもあるかもしれない。
ある仕事が人を喜ばせることもあれば、無視されるかもしれない。
何が返って来るかわからない。ということが基本だと思えば、
良いことが返ってくれば歓べばいいし、
悪いことが返ってきても腹を立てる必要もない。

最近は割と怒らなくなっていて、何か楽です。