斎藤ちさとのウェブログ CHISATO SAITO weblog
嗜好品としての『茶』を巡るあれこれからびじゅつを眺めてみる。

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凡庸と向き合う



沼津での展示の合間を見つけ三島のクレマチスの丘 IZU PHOTO MUSEUMに
フィオナ・タンの作品《アセント》を見てきました。
日頃、なかなか周りの人たちを説得するのが難しい現代美術の魅力について思いを馳せましたのでメモ的に記します。



《アセント》は富士山をモチーフにした77分の映像作品。
富士山が写っている写真、幕末のものから最近のものまで、夥しい量の収集した資料や写真
で構成された映像に、女性の声(作家本人)と日本語の男性(何故か長谷川博己)のモノローグが
交互に重なります。



女性の声は富士山を巡る日本の歴史や写真史を外国人の視点から語り、日本人男性の声は富士山を登山して降りてくるまでの心の動きを語るのを併せ、ひたすら読み込む77分。


あらゆる角度からの富士山の画像を眺めながら、感動的な展開もない、淡々とした時間が流れてゆきます。人によっては眠いでしょう。退屈でしょう。という時間。
が、ふと。あ、これは葛飾北斎の富嶽三十六景トリビュートなんだな。と気づく。



実は現代美術の最大の醍醐味って「退屈さ」だと思っています。
今各地で人気の「解りやすいでしょ!楽しいでしょ!みんな繋がろう!アート」ではなく、たいがいの「現代美術」は大掛かりなくせに退屈でヨクワカラナイ。
でもそこが肝なので困る。

フェイスブック的リア充的な、
自分の人生を「(他所様より)素晴らしい」と思いたい、ある種の現実逃避がエンタテインメントの魅力とすると。
そういったちょっとした虚栄心から距離を置くことができて、
自分自身の凡庸さや人生の退屈さ。ケの部分と大っぴらに向き合えること。
それは自身の人生を否定するものではありません。

「現代美術」の作品に触れて、
《退屈な自分と向き合ってしまう》《自身の凡庸さを受け入れる》のは、ある種の精神の解放とさえ思える経験となる。

美術はデュシャンやダダの作家たちにより崇高ではなくなり、
ウォーホールやポップ・アートの作品群は平凡さや凡庸さをモチーフに据えた。
それから、私たちの場合は90年代以降に村上隆がいる。
実際にはもっといろいろありますがそれはそれとして、21世紀の表現はその延長にある。
近代美術の持っていた哲学的な思考を絡ませるという性質はむしろ強まり、
(その反動からか親しみやすい「アート」も出現。パンクか?)
現代美術では良質な作品ほど退屈で、読み込む時に戸惑う。
それは、自身の凡庸さやただ日々を生きることの退屈さと向き合うことでもあって。
「アート〜解りやすいよ!」でなく「現代美術」が難解でスノッブで敬遠されるのでもなく、
実は「自分の退屈さや凡庸」と向き合うことがしんどいということなのかな。。と。



しかし、そういう作品を見た後は、周りの景色が良いものに思えるのが何とも不思議です。


p.s.《アセント》の作中、長谷川博己がゴジラとキングコングの対決を語るシーンがありましたが、 シンゴジラとの関連は狙ったのでしょうか??

#茶の湯スタディ

2015年9月16日
お菓子:信玄餅キャラメル
水:ファミマの天然水 津南

以前より茶の湯をベースに何か出来ないかという野望を持っていまして、
半年前に茶道に入門して身体を動かしつつ思考して。。
と言いたいところですが、正直まだ作法を習得することで精いっぱいの段階です。
そんな状態ではありますが、
「何が出来るか思考する」スタディとして、時間の許す日にお茶を点てることを積み重ねて
みようと始めたところが前回の投稿です。
茶の湯は空間と時間のある芸術なので、ドローイングというよりは、建築の人たちが使う
スタディという言葉が近いように思いました。
主にtwitterで試験的にスマートフォンで撮影した画像をアップし始め、
昨日よりハッシュタグをつけ始めています。(遅いわ!)
#茶の湯スタディ

ハッシュタグ、最初から付ければ良かったのですが見切り発車ではじめてしまいました
ので、それ以前のものはこちらに記録します。
抹茶茶碗はブルーのものは友人の陶芸家内山朋子さんにお願いして作ってもらいました。
グレーは実家にあったものでもともと欠けていますが、愛着があるので使っています。
どちらもお茶碗の正面は特に決まっていないので、毎回景色を変えて楽しんでいます。




8月19日
お菓子:六花亭 夏見舞


8月19日
お菓子:サントリーフーズ キレイな間食



8月22日
お菓子:カントリーマーム 塩レモン
水:ファミマの天然水 霧島


8月27日
お菓子:六花亭 霜だたみ
水:キリンの軟水


8月27日
お菓子:六花亭 ひとつ鍋
水:鷲尾名水 熊野古道の水


8月28日
お菓子:六花亭 マルセイバターサンド
水:鷲尾名水 熊野古道の水


8月29日
お菓子:豊島屋 和賀江島
水:キリンの軟水


8月30日 デモ出発前に一服
お菓子:六花亭 水ごよみ
水:いろはす 富山


8月31日
お菓子:干し葡萄
水:いろはす 富山


9月02日
お菓子:デーツと干し葡萄
水:クィーンズイセタン 支笏湖の水


9月03日
お菓子:信玄餅キャラメル
水:鷲尾名水 熊野古道の水


9月04日
お菓子:サントリーフーズ キレイな間食
水:鷲尾名水 熊野古道の水


9月06日
お菓子:大門岡埜 せせらぎ
水:南アルプス天然水


9月07日
お菓子:小豆のとっかん ココナッツチップス
水:鷲尾名水 熊野古道の水


9月10日
お菓子:カントリーマーム 北海道フロマージュ
水:いろはす 富山


9月13日
お菓子:和賀江島
水:いろはす 富山


9月14日
お菓子:無印良品 ココナッツマカロン
水:ファミマの天然水 霧島

お茶からのお花の話



この春からお茶を習い始めました。
すでに数回のお稽古を経ましたが
私は筋が悪くて、袱紗さばきとか歩き方とか手順もいちいち覚えが悪く、
もう本当にダメダメで何度も泣きそうになり、あげくの果てに先生が言いにくそうに
「続けますか、、、?」
とおっしゃる始末。
咄嗟に不自然な笑顔を作って(本当は涙目)
「続けたいのでよろしくお願いいたします」
みたいなやりとりが起こってしまう体たらくですが、
今月のお稽古はつっかえながらも、何となくお茶席にいる楽しさみたいなものを
感じることができました。
(開き直って長い目でのんびり頑張ります)

そんな状態ですが、ダメダメなりに発見は多く、お茶室で花についてふと思ったことを
メモしました。

++++++++++++++++++++++

お茶室で床の間の花を見ていると、花は野にあるように。という利休の言葉を継承しているのだな。としみじみ思う。
自然や季節の花そのものの美しさを素直に愛で る楽しさ。
茶花は立花と対の存在として登場した。
いっぽういけばなの原型とされている立花が池坊専応の、わずかの花木によって絶景を超える景色を表せ。
という言葉からは(本当はもっと長いので興味ある方はこちらをご参照ください↓)
http://cs-diary.geppei.com/?eid=1421558

花の個々の美しさを愛でるではなく、いくつかの花木それぞれの関係によって絶景を超える景色を表す事が可能。
と私は解釈している。絵画に置き換えて言う と、絵を見るときに絵の具そのものの美しさをたたえることはない。
もし画面の中で素材の絵の具の美しさが一番目に入るとしたらその絵は失敗だ。

絵の具が絵の具にしか見えない絵はだめだ。画面についている絵の具が気にならなくなるように。
と10代の頃先生方にうるさいくらい言われた。
それと似てい て、いけばなの一部の百合を見て。まぁ綺麗な百合。。というのは本来はNG。
個々の花に拘らず、それぞれの関係で大きな宇宙とか世界観を表せているかどうか。
(ただしそのような視点を身につけるのに一定の訓練が必要のように思う)

話が最初に戻ると利休の、野にあるように。という言葉。あの利休が単に可愛く自然を模倣せよ。と意図しただろうか?
そのようにはとても考えられない。
茶の湯には床の間を始めとする空間や所作に費やす時間との関係もある。花はあくまでお茶室宇宙の一部であって、
独立した存在ではない。とすると、可愛い花を愛でることそれと同時に、宇宙に溶け込んだ一部であると認識すること。
どっちも取ってみよ。という挑発なんじゃないかな。
人工的な命


造花と生花。交互にいけてみました。
こちらは生命のある花。

私はモチーフにする花を大概アトリエに近いフラワーマーケット某で入手します。
自然に咲くものをいけるのは年に2シーズン。
春に友人から譲り受けて庭に植えたクリスマスローズ。
晩夏に祖父が植えたギボウシ。
他にも花はあるのですが、この2種に絞っています。

少し考えるのですが、花屋さんに流通しているような花木はほとんど
品種改良された花であって野に自然に生えてきているのではありません。
育種や品種改良にも歴史があって、先人の知恵や技術の蓄積があり、
そこには彼らの精神の反映があります。

これらの命も人工生命であります。
しかし、狩猟採取の時代の人々のようには生きられなくなった今、
私たちもこれらの花と同じように人工的な命を生きているだということ。

未来の世界に生命ある人間がいなくなって、造花が飾られるように
生命のない人形が学校に行って会社に行ったり、結婚して家庭を作って。。。
というような日が訪れるのかもしれません。
いや、それはもう始まっている?

その法律は誰のため?
 昨日の東京新聞に「特定秘密保護法」の全文が載っていたので
ざっと読んでみました。
「その他」という言葉や曖昧な言い回しが多く、解釈によっては何もないのかもしれないし
解釈によっては相当に怖い扱いをうけることになる。
まだ印象段階なので、読みこなすには引き続き勉強していく必要がありそうです。

敗戦直後にGHQが日本の民主化と非軍事化に必要な項目として
・女性参政権の付与
・労働組合の育成と奨励
・教育の自由主義化
・経済機構の民主化
・秘密機構の廃止
<衆議院憲政記念館 戦後日本の再出発特別展の序文(福永文夫氏)より引用>
 
の5項目を挙げていて、最後に秘密機構の廃止(治安維持法と思想警察の全廃)が
きます。
現政府は原発事故や汚染水の処理など「問題ない」と世界に向けてアピールしていて
クリアな政治とはとても言えない状況です。

そこに来て特定秘密保護法の制定というのはとてもじゃないけど日本の未来が
明るいとは思えない。

先日ブログにも書いた曾祖父は法学者だったのですが、
彼が研究した破産法という法律は今でも使われています。
破産しなくてはならない状況の人が使う法なので安定した状態ならば、縁起でもねぇ!
といったところでしょうが、

困った状態に陥った人が、自死や一家心中などさらに悲惨な状態になるのを
食い止めるための法律なんだよ。

弱い立場にあるひとたちのための究極の救済策なのだと。
と子どもの頃 叔父から聞かされたのを思い出します。

何故社会や人間には法律が必要なのだろうか?
それは精神的にも生物的にも本来人間は弱い存在だからではないでしょうか。
ある歯車に乗っている状態にあると、そんなことは考えなくても良いですが
一歩歯車が狂い出すと簡単に壊れてしまうような儚い存在。
だからこそ食い止めるため抑制する必要がある。
それが「法」なのだと考えてきました。

また法は、凄惨な殺人事件だとか大きな事故が
起きるなど人の命が奪われることあった規模の
「従来の法を変えなければならないこと」が起きた場合に変わってきました
特定秘密保護法は大義名分としては、スパイ行為に対する抑制と
読む事が出来ます。
最近そのようなことがあったのでしょうか?
政府からの説明もないですし、有識者の提案は無視、国民間の議論も不十分な状態で
何故焦って通したのでしょう。
もしかしてもう隠されている?

そして、この法律は誰のために作られたのでしょうか?
少なくとも弱い立場の人間を保護するものではありません。
原発事故の処理情報がこれ以上隠されないためにも
短い期間で廃案になることを望みます。


作品のこと(ちょっと整理
 


展示も落ち着いたので、新たなサイクルの準備期間という感じで

まずはここ数年の仕事について整理したいと思います。


点描の展開として、2005年に空気の粒子をフィルターに見立てた動画を作ることから

スタートしました。

際限なく生まれて弾ける気泡が慌ただしく生きる私たちのように思え、

中が空洞で周りの環境を反映する気泡が、学習によって人間性を獲得していく

私たちのように思えたのです。


その泡に重ねる環境は

水と建築のある風景と花に2011年から特に重きをおいています。


20代の頃から、お台場から都心のビル群を眺めると

「でっかいお庭みたい」と思っていました。

いけばなの歴史と同時に庭園や山水画についても調べていくうちに

庭園は山水画を3D化したものであり、枯山水庭園といけばなは補完関係から

出現したのでは?という説があることがわかりました。

漠然と考えてきた点と点が線になった瞬間です。


「でっかいお庭」たる水と現代建築のある風景を補完するような

花は。。と考えていたところ


いけばなの祖の一人、池坊専応口伝に出会いました。序文にこうあります。


・・・たゞ小水尺樹をもつて江山数程の勝概(しようがい)をあらはし、

、暫時頃刻の間に千変万化の佳境をもよおす。


(数本の花木、これだけで江山の絶景に劣らない眺めをあらわすこと。

 つまり生けられた花や木が花木そのものを離れて、抽象化・虚構化されて

 小宇宙になっていること。これが立花(いけばなの祖)の妙。)


絶景に劣らない眺め。

2011年を経験した私たちが提示していかなければならない眺め。

どういったものだろう?





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美しさについてのメモ
 

前回書いたラファエロの展覧会を見て改めて考えているのは、
ラファエロが後世の人々に残した波紋。
つまり、後世の人間はラファエロを規範としたが、
そのアカデミックとの相克関係から近代から現在までの美術は展開してきた
ということ。(おおざっぱw)

近代の美術史の美しくないもの(リアル)から美しい部分を見いだす、
または美しくないものを見つめる視点の展開という側面です。
芸術の発祥は真理の追求が根底にあって、それが実に様々な様態をとって
とって今日まで展開してきています。
リアリズムの多様な展開。

美術の歴史において、装飾が芸術に転換していくのはルネサンス期が始まり
だったとされていて
その後近代に入って、芸術から装飾的な実用的な要素はデザインとして切り分けられた
のですが、
21世紀近くなってそのことに対する反省というか、反動のような形をとって
境界が曖昧になってきていて、または反転している現象すら見られる。
というのが現在の状態。

で、改めてバーチャルリアリティの時代にリアルを書き出す。
ということが如何に可能か。

リアルを書き出すべき対象は何か。
如何にリアルを書き出すか(書き出さないかも含め)
書き出されたものがとてつもなく美しい。
という状態は本質的な批評として機能するだろうか。
などなど。

ところで来月頭から、横浜で小品を展示しますが、
年明けからそんなことを考え考えつつ制作した作品です。
トップに貼った画像はセレクトから漏れたもの。
この画像は大きくしたいな。という判断が働いて
今回は小品展なので見送りました。

いつか機会を作りたいと思っています。




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追随と模倣を許さないものについて

左)レオナルド 右)ラファエロ


ラファエロについては、ずっと複雑な気持ちを抱いてきました。

多分私だけでなく、近代以降に活動するアーティストにある程度共通している感覚だと

思うのですが。


何故ならアカデミズムというものはラファエロをお手本にしており、

近代以降の美術はアカデミズムに抗いながら発展してきた歴史があるから。


アングルなどの新古典主義と、それを批判して浮上したドラクロワなどロマン主義との

相克が近代美術の始まりだ。と私は認識しています。

アカデミズムとの相克が近代を作ってきた側面があるというか。

現代の作家を見渡すとそんなことを意識している人は少ないのかもしれないけど、

例えばバンクシーやJRやチンポムのような

古典的な美の規範に抗うような表現をするアーティスト、

も反アカデミズムという見方をすると

結局その流れに属していることでアーティストとして成立しているように見える。


逆に、古典の技術を重んじる作家もここ10年くらいでがーと増えてきていて、

古典を学ぶことは脱近代なのか、復古なのか。

ここ十年くらい考えています。


先日ラファエロの展覧会を見ている時、ふと

「何故アカデミズムのお手本はレオナルドではなくラファエロだったのだろう?」

と素朴な疑問が湧きました。



ラファエロは先輩格のミケランジェロとレオナルドから多くを学び、

特にレオナルドからはスフマート技法などを学び吸収して作風を作り上げていったわけで、

レオナルドには工房の親方としては師事はしていないものの

アトリエに出入りすることを許されていて先生的な存在だったそうです。



規範がお手本としたものを最初からお手本とすれば良いのに。

私なら先生は,、どうせならラファエロよりレオナルド大先生がいいなぁ。と。

そして何故レオナルドが規範にならなかったか。考えていました。



今発売されているPENのルネサンス特集に、レオナルドのフォロワーが何故少ないか。

についてのページがあり、何人かの弟子やフォロワーの作品が掲載されているのですが、

スフマートやら表面的な描き方は真似しているけれども、

レオナルドの作品とは似て非なるもの。

フォロワーたちの絵はどれもベタついていて空間がすっきりしないし、

レオナルドの絵に漂うの微細な気のようなものも存在しない。

芸術において(もしかしたら全ての分野で?)肝心なところは真似できない。

ということがよくわかります。


そう言えば、前回アップしたJOY DIVISIONの記事。

ひとかどのミュージシャンたちがこぞってカバーしていますが、

イアン・カーティスのようには誰も歌えないのです。

イアン・カーティスの声はレオナルドのあらゆる作品に通ずる、この世ではないような

気が満ちています。



規範がお手本としたものは、メソッド化や万人が学ぶことが不可能な部分があり。

それらを除いたものが、規範とされる。

ということなのかもしれません。



江戸時代の茶人・川上不白が


「茶点前は師匠に似ざるを好むなり」


という言葉を残しています。(「茶の湯名言集」田中仙堂著、角川ソフィア文庫より引用)


茶の点前は師匠に似ないのが好ましい。

人が似せることが出来るのは、他人の癖である。

癖として目立つところは、欠点といいかえてもよい。

したがって、師匠にそっくりな点前とは、師匠の欠点をそっくり受け継いだ点前ということになる。


確かにレオナルドのフォロワーたちが継いでしまったのはレオナルドの良いところ

ではなく、癖なのだ。と考えるとわかりやすい。


対して規範は美を示す共通言語のようなもので、

癖とは全く違う位相を示していて、先人が見いだした知恵なのだと、今は敬意を覚えます。



と今回ラファエロの作品は美しいな。と素直に認めることができました。

というか、歴史上の「美の規範」を認めることはさまざまな近代の問題を乗り越えて、

未来を切り開くには踏まなくてはいけないことのように思った次第です。


しかし、規範に習うこともなかなか困難な事なのではないか?

ジュリオ・ロマーノのタブローから見てとれるのは


規範というよりラファエロの癖が濃厚のように思えます。

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『前衛いけばなの時代』を読んで前衛美術を考える。
祖母は前衛いけばなの師匠でした。

私は物心ついたころから、草月会館などの展覧会を連れまわされ、

多分最初に見たアート作品は草月会館のロビーに設置された

イサムノグチの「天国」で、上ったり降りたりして遊んだ記憶が残っています。


祖母の属した草月流という流派は、現代美術といけばなのミクスチャーを目指して

新しい地平を作ろうとしたしたところがあり、いけばなと現代美術を同じ目線で見て行く

というのは私にとって幼少の頃から自然な行為でした。

彼女は60〜70年代にかけて草月会館で行われたハプニングやイベントもいくつか目撃

していたし、勅使河原蒼風家元のほかにも、

スキルアップのための講座の講師が、土門拳や飯田善国、朝倉摂・響子姉妹を始めとする

ビッグネームばかりで、話を聞くのはとても面白かった。

また私の現代美術(90年代くらいまでの)の知識は、大学の講義ではなく

草月流が発行している「草月」に連載されている中原佑介氏や安斎重男氏、篠田達美氏などの記事によって。得ていたのでした。

つまり私はいけばなサイドから美術を眺めてきたというのが正直なところです。


「古いもの、伝統、古典は全部くだらなくて退屈でつまらない」

もの心ついた頃から祖母から繰り返し聞かされた言葉です。

いけばなでも古い歴史を学ぶ必要はないし、

古い型を継承している流派はくだらない。

とイッセイ・ミヤケのパンツを履き、煙草の煙を吐きながら祖母は言っていました。


新しいものだけが素晴らしい。現代だけに価値がある。


これが幼少から最近までの私の前衛観。

<今は平和で戦争も終わったし自由の時代だからね>

というわけです。

繰り返し聞かされたので、ほとんど呪文かお経のようでした(苦笑。


そんな経緯から前衛主義礼賛、現代だけを至高とする価値観は

私の中に30歳近くなるまで根強くありました。

そのくせ、「前衛芸術」について、また「前衛いけばなの成り立ち」について

祖母の話だけで満足して、深く知ろうとしていなかったのは全く片手落ちだったことに

気づいたのはここ10年くらいのことです。

いけばなには歴史があり、他のジャンルとクロスしていきながら新しい展開をしてきた

ことなど知る由もなく。。。

2000年に祖母が亡くなり、私も30を過ぎた頃からそれまでの自分の態度を

疑問に思うようになり、ようやく2008年頃からいけばなの成り立ちや歴史や存在の根拠

を機会見つけて調べるようにしています。


前置きが長くなりましたが、

古典はある程度感触が掴めたので、灯台もと暗しであった前衛いけばなを見直す

べく、三頭谷鷹史著「前衛いけばなの時代」を読みました。


いけばな前衛運動の母型といえば、造園で有名な重森三玲が呼びかけて、

勅使河原蒼風や中山文甫、桑原宗慶、柳本重甫、評論家の藤井好文が集まって、

昭和初期に発表された新興いけばな宣言が知られています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(P28)

新興「いけばな」は懐古的感情を斥ける。懐古的な如何なるものにも生きた世界は求められない。そこには静かに眠る美よりない。

新興「いけばな」は形式的固定を斥ける。創造はつねに新鮮なる型式を生む。固定した形式は墓石でしかない。                

新興「いけばな」は道義的観念を斥ける。「いけばな」は宗教的訓話ではなく、道話的作話でもない。何よりこれは芸術である。

新興「いけばな」は植物学的制限を斥ける。芸術としての「いけばな」は断じて植物標本ではなく、又植物学教材でもない。植物は最も重要なる素材である。

新興「いけばな」は花器を自由に駆使する。  (以下略)


(P31)

宣言前文には「われわれの『いけばな』は極楽の島の上に、惨めにも取り残された運命的な敗残者の一人だ」などと、激烈な言葉が記されているのである。ある時代には完成した芸術でありえたものが、今は形骸にすぎず、「婦人のみだしなみ」「閑人の芸事」としてあるだけで、「かかる不幸と、かかる冒涜と、かかる堕落から」いけばなを救わなくてはならない、


芸術という言葉がいけばなにとって何を意味するのか重要である。宣言の背景には新興の芸術潮流があり、

その光源として海外の未来派、立体派、表現主義、ダダイズムなどの芸術運動の波があった。


(P32)

例えば未来派宣言などは、言いたい放題の乱暴なものだが、美術館を破壊し伝統に火をかけろといった

反伝統主義で貫かれ現代性にすべての価値をおこうとする立場は鮮明であった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今読むと、恥ずかしいくらいにモダンな態度ですが、

改めて祖母の言動の根拠が何だったのか理解できました。

上記に抜粋した姿勢は

いけばなにかぎらず、前衛のアーティストに多かれ少なかれ共有された態度。

反伝統主義こそ前衛。

現代性こそが至高の価値。


新興いけばな宣言は昭和初期のものですが、この理念は第二次大戦後に引き継がれます。

戦後の反伝統主義を謳った人々は、戦争が終わり、徴兵にも空襲にもおびえず生きる事の できる世界を謳歌する気運も後押ししたのではないでしょうか。

祖母たちのように。


しかし、話は飛びますが、昨年起きた原発事故から、戦後の日本を改めて振り返ると

本当に戦争は終わったのだろうか?という疑問がぬぐえません。

むしろまだ違ったかたちで戦時下と言えるのはないか。

では戦後の前衛芸術のどこに意味を見いだしたら良いのだろう。と考えてしまっています。


この本の後半には著者の三頭谷鷹史氏と下田尚利氏/北沢憲昭氏の対談が2つ収められているのですが、

北沢憲昭氏の発言の中に重要な指摘を見つけました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(P264)

私は、さきほども申しましたように近代国家に入れ子のように成り立つ美術という国家を

想定するのですが、

この王国が独立的になればなるほどーつまり、芸術の自律性が目指されるにつれて、

美術は、生命や社会からどんどん遊離していくことになります。

そうすると、美術は、どんどん先鋭的になってゆきますけど、一方で、表現を支える生命力や社会的な力が衰退してゆくことになる。

美術がどんどん痩せ細っていく。

するとそこに危機意識が生まれます、

そして、美術をもう一度、生命や社会の現実に関係づけようという企てが生まれる。

それがアヴァンギャルドであるわけです。

芸術と生活、芸術と社会、芸術と現実を激しく化学反応させることで力を生み出そうと

するわけです。

したがってアヴァンギャルドは、モダニズムが尊奉する芸術の純粋性や自律性とは抵触する

ことになる。

なにしろ、芸術と生活のボーダーを突破しようとするわけですから、ジャンル間のボーダー

も、そのためには平気で跨ぎ越してゆくことになります。

ジャンル間を横断し、あるいはジャンルを解体するような形でアヴァンギャルドは運動を

展開してゆくわけです。

そして、その際の突破口になったのが<私>であった。制度や歴史への断絶の意志をもつ

<私>が、芸術の枠を敢然と越えていったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


反伝統主義で現在が至高であり、かつ生活や社会との繋がりを模索する態度。

反伝統主義だけでなかったのですね。。人生や社会や生活との繋がり!

遅ればせ前衛観が上書きされました。


ピカソが20世紀初頭にアヴィニョンの娘を発表してキュビズムを展開するのですが、

あまりにも現実の世界と離れてしまった反省から、印刷物を使ったコラージュを始めて

現実との繋がりを回復しようと試みたことを思い起こします。


伝統に拘らず、生活や社会との繋がりの回復。といういう部分で言えば

『前衛美術』は歴史の浅いデザインとも相性が良いのかもしれません。


そんなことをここ半年ばかりぐるぐると考えてきたのですが、

今参加している展覧会は、フルクサスのメンバーの一人、塩見允枝子さんが起点になって

いて、次のスペースは若手のサウンドアーティストmamoruさんという流れで始まり、

前衛の展開や現代社会においての可能性を探るような構成になっています。

何だかタイムリー(笑。



いけばなは、花を単に美しくいける技術などではなくて、

美しくいけられた花を通して(透かして)世界のいろいろについて思いを巡らせる。


というのが根源にある意図。というのが私のいけばな観。

この地点に立ち返りつつ、未来の人々や社会のあり方について考えてゆければ。

と思うこの頃です。


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メモ

 今、社会に対して「抑制された美」を差し出すことは批評行為なのだと
私は考えています。

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