マーティン・スコセッシが監督した「沈黙ーサイレンス」を見ました。
私は小学校から高校までカトリックの学校に通っていまして、
修学旅行は天草・島原・長崎の隠れキリシタン巡礼の旅だったこともあり、
遠藤周作の原作は高校一年の課題で、悩みに悩んで感想文を書いたのを思い出します。
30年の間に自分の考えがどのように変わったのか変わらないのか知りたくて、
公開をずっと待ちわびていました。
想像していた場面が映像化されるのを見てみると、予測以上にきつく
2時間30分で2キロくらい痩せたんじゃないか?くらいのしんどさでしたが、
映像も時代考証(衣装やセットなど)も細やな配慮があり、なによりキャスティングが絶妙で
素晴らしかった。
評判の井上筑後守のイッセー尾形はもちろん、キチジロー窪塚洋介の憎みきれないろくでなしぶりや
モキチ塚本晋也の無垢さ、キリシタン加瀬亮の静かな強さ。。。
基本的な感想は変わらなくて、われながら頑固で呆れます。
原本が手元にないのでうろ覚えですが、15歳の自分はこのように考えました。
もし自分が隠れキリシタンであったなら、信仰は捨てないが殉教はしない。
踏み絵を踏んで信仰を捨てたと思わせて見えないところで祈る。
(魂は売らねぇ的な)
ただ、他の隠れキリシタンや司祭たちに対しては、殉教しても棄教してもどちらでも構わないと思う。
それが魂の自由なんだ。
というような内容でした。青いですね(汗。
それでも、30年の間に知識はそれなりに増え、考える材料も増えました。
例えば10代の頃は何故秀吉がバテレン追放令を出し、幕府が禁教令を出したかまでは
理解が及んでいませんした。
幕府はただただ権力で弱いものから奪う存在として捉えていたのですが
実は秀吉も家康もスペインやポルトガルのカトリック国が南米を侵略して植民地化して
現地の人々を奴隷として扱っていた情報を得ていたのですね。
日本が南米の二の舞を踏まないように、キリスト教を禁じて、更に鎖国に発展。
プロテスタント国は布教と貿易を分けている。との情報からオランダとイギリスとは交易を
すると(後にイギリスはインドに利を見いだし撤退。これは日本にしてみれば幸運でした)
あの時代に凄いインテリジェンス能力だと感心します。
もちろん中央集権という目的はありますが、自国の自立。ということを一番に考えて
の禁教だったのでした。
そのあたりは映画は一言二言、イッセー尾形と浅野忠信のセリフに含まれただけで
(ハリウッドだしね)映画を単純に見れば、
『権力者が信仰の自由を侵害するのに抵抗した無垢な人々と悲劇の司教たち』
のお話になってしまうな。と。
というか、かつての自分はそのように話の筋を読んでいましたから。
司教たちについては、殉教した者もいれば、棄教して日本に残るものもいました。
物語では、出島で輸入品を検疫する場面で棄教した二人、フェレイラがロドリゴに、
「主だけが裁くことができる」
とポロッと漏らすシーンがあり、
「主?」(ニヤリ)
「いや何でもない」
みたいなやり取りがあり、二人が根のところでは信仰を捨てていないのです。
司教という立場を剥奪され教会に所属せず、、社会的には仏教徒に改宗させられ、
それでも彼らの心には「主」が存在しつづけ密かに孤独な対話が続けられた。
「神と私」だけの関係。
社会的な立場を奪われてから、ある種の究極の信仰の境地に達したことが伺えます。
私たちは信仰や神を組織や教団との関係と等しく扱いがちですが、
それはきっと違うのでしょうね。
「神」は「人間」の創造した概念ではあるけれど、
都合良く答えてくれるのなら「人間の範疇」であってそれこそ神ではない。
こちらの都合に合わせて答えてくれないからこそ、私たちの領域を越え、
それは存在しうる。
などと改めて。